大切な人が亡くなった日の話

先日、大切な人が亡くなった。

 

93歳だったので、いつそうなっても不思議ではなかったけど、それでも心のどこかでまだ元気でいてくれると思っていたから、その訃報を聞いた時は取り乱してしまった。とてもお世話になった人だし、年始にお見舞いに行ったこととかいろいろ思い出して、涙が止まらなくなった。仕事中だったので泣きながらパソコンで作業していたら、

「今年の花粉はひどいっすよねー。」

と同僚に声をかけられた。この季節は好きなだけ人前で泣いてもいいらしい。初めて花粉に感謝しようと思った。

 

通夜や葬儀は決められたしきたりを必死にこなすことに精一杯で、故人を偲ぶ余裕もなかった。93歳にしては驚異的な骨の量で、骨壷満杯になったのには一同驚いた。心身ともに最期まで元気な人だったと思う。

 

葬儀慣れした年配者を見ると、死に対する免疫に対して圧倒的な差を感じる。季節の移り変わりを眺めるように、人の死をあるがまま受け入れることがまだ自分には出来ない。形あるものはいつかなくなる。そういう言葉をつぶやいて平然と過ごす日が来るのだろうか。だとしたら少し悲しい。咲き誇る花の色が少しずつ色褪せていくのに気付かないふりを許されるのなら、今はまだもう少し目をそらせていたい。

年を取りつつある今日このごろ

今日はクリームで手持ちの革靴や革鞄を磨いたり、クロスで銀製品を磨いたり、そんな優雅な感じで1日過ごしていた。持ち物の手入れとか今まで全然やる方ではなかったけれど、手入れをしていない持ち物を身につけることでにじみ出るみすぼらしさを感じ取るようになってきて、気が向いたときにやるようにしている。あとは、消化できないほどの量を取り込むことで得られた刹那的な充実感にひたれた頃へ別れを告げ、厳選したものを長く使うことで得られる愛着という喜びを楽しめるようになった。これが年を取ったってやつだろうか。

 

フェイスブックもブログもツイッターも、少し見ていないだけであっという間に知らないことだらけになる。あの取り残された劣等感を強烈に煽ってくる力には参る。だけど毎日溢れるほどの情報を読み込むことで劣等感を薄めることに時間を費やすよりも、純度の高い思いを熟成させていくことに集中できるようになって、ネットの楽しみ方が変わった。うむ、やはり年を取ったらしい。

ハーゲンダッツ「オペラ」を食べた日の話

飲み会の後にハーゲンダッツが食べたくなったのでコンビニへ立ち寄った。たまには新味にしようと思い、「オペラ」を値段も確認せずにレジへ持って行ったら420円と表示された。え、今420円って出たけど何かの間違い?一旦検討させてもらっていいですか?って気が弱くて言えなかったので購入してしまった。

 

味は間違いなく良いけど、一口食べるたびに420円が頭をよぎる庶民な自分。でも居酒屋でデザート頼んだらまずいアイスでも420円くらいするから、それと比べれば結果的にいい選択をしたに違いない。そうして自分を納得させ、次回買うときの言い訳にも採用しようと思う。

成長する人しない人

先日お話した父子の件、今日の朝見かけたらとうとう息子が抱っこされずに父親の手をつないでトコトコ歩いていた。この約2週間で自立に拍車!昨年のコアラ状態から見事に脱却!お父さん、またしてもやりましたな。他人の子供だけどなんかまたジーンとした。

 

そんな子供の成長とは裏腹に、会社の後輩が取引先に迷惑をかけているようで、上司に烈火のごとく怒られていた。それについてこれまで上司に報告も連絡も相談もしてなかったという、社会人としてはまず徹底的にダメ出しされるパターンだから10:0で後輩が悪いわけだけど、さらにその後輩がダメなのはしどろもどろな説明で上司の怒りを倍増させるから、これはもういっそのこと「社会人1年目におくる『こんな部下になってはいけない』 〜報・連・相はきちんとしよう編〜」の教材として永久保存にするべきだと思った。そうでもしないと午前中延々怒られ続けた後輩が浮かばれない(残念ながらそのくらい怒られても仕方がない事態ではあった)。では最後に上司が帰った後の会話を記す。

 

自分「お前企画の飲み会開きたかったら開いていいよ。」

後輩「まじすか。」

自分「死にたくなったらまず飲み会開けば?」

後輩「最後の飲み会ですね。」

先輩「お前そんな事言うなよ。飲み会って言えばみんなぞろぞろ集まるよ。」

自分「もうただの親睦会になっちゃうけどね。」

後輩「・・・俺どうでもいいじゃないですか。」

 

そんな後輩、実はもうすぐ社会人4年目。据えられたお灸がちゃんと効くことを切に願う。

 

N700Aに出会った日の話

シアトル系コーヒーショップへたまに立ち寄るけど、業務用シロップの入れ物がどう見てもシャンプーボトルにしか見えないのでちょっと萎える。

 

新幹線を待っていたら新型車両のN700Aが来てテンション上がった。と思ったら自分が乗る1本前の列車だった。さよならN700A。そのあと何食わぬ顔でAじゃないN700系が来たときのホーム全体のしょんぼり感半端なかった。そりゃN700系だって初めて乗ったときは感動したし、十分新しい方だし、特に不満はないけど、やはり新型デビューと聞くと祇園精舎の鐘が鳴る。期待の新人!ルーキー!ニューカマー!そういう言葉に弱い我々。あぁ、なのに従来型N700系でもN700Aでも乗車券・特急券の料金は同じ。何だろうこの損したような気分。でも拗ねてはいけない。従来型N700系も頑張っているのだ。だから窓側席の乗客が一向にAC電源を貸してくれなくても文句は言わないことにする。

悪魔に魂を売るな

今日は悪魔に魂を売るような出来事があって、どうにもこうにも耐えられなくて道路の真ん中で「あ゛ーーーーーっ!」て叫びたい気分になったけど、いい大人がそういうわけにもいかないので、昼下がりの道路で顔だけ「あ゛ーーーーーっ!」ってやってたら、日向ぼっこしていた二人組の老人と目が合って気まずかった。やはり悪魔に魂を売ってはいけないので買い戻そう。

 

どういう出来事だったかというのは詳しく書けないけれど(なぜなら悪魔がこれを読んでいたら困るからだ)、しいて言うなら女子社員が嫌いな男性社員にチョコなどあげないと思いきやきちんと手渡しで「〇〇さんのために買いました♡」とニコニコ持ってくることで「あれアイツ意外といい奴じゃね?」と思わせておきながら実はほかの男性社員とチョコ単価1000円くらい差をつけてることで暗にしかしはっきりと嫌悪感を示しているよりももう少し倫理観が問われる感じ。何を言っているかわからない人は悪魔に魂を奪われずに済みそうだからそのまま清く正しく生きてほしい。

駅でカラスを見かけた日の話

カラスが線路のレールの上を器用に歩く。体操選手のようにバランスをとりながら20歩ほど歩いて、一旦石の上に飛び降りてから、またレールの上へ飛び乗って歩き始める。

 

間もなく電車が到着するというアナウンスをカラスが聞くわけもなく、まだレール歩きを続けている。「線路は感電の恐れがあるため、絶対に降りないでください」という看板がむなしくも視界に入る。

 

電車を待つ客の一人がホームの端に近寄って、カラスの写真を撮り始める。カラスは首をかしげる。そして飛び立つ。電車が進入する。客は慌ててホームから離れる。

 

鳥が自由なら僕らは不自由?

 

客は降りる、そして客は乗る。電車はゆっくりと去る。カラスは線路に舞い戻る。僕らは行く。彼らは来る。自由と不自由の狭間で電車を1本見送る。