執着心と好奇心

昨日、「執着心について再度見直してみたい」と書いたのでもう少し考えてみる。

 

最近、執着心がどんどんなくなっていると感じる。社会を円滑に回すことが行動の判断基準になっているからだと思う。面倒が起きるくらいなら、執着しないで流した方が得。大人の暗黙ルールブックに多分掲載されている。

 

一方、好奇心は意外と衰えない。世間的にも好奇心は歓迎される。興味を持って嫌がられることはない。情報を手に入れる環境は充実しているし、好奇心を刺激するのは簡単だ。

 

でも思う。始めるのは簡単、やり切るのは大変。社会に出るとつくづくこのことを痛感する。好奇心で物事を始めることは出来ても、執着心がないと完遂出来ない。執着しないと、途中で飽きたり、嫌になって簡単に妥協してしまうのだ。

 

執着という言葉は、どちらかというと嫌なイメージで使われるが、本当はとても大事な行為だと思う。自分の意見を通すための駆動力は、好奇心より執着心の方が大きい。好奇心だけでビルは建たない。浅草のアサヒビールタワーとスーパードライホールも建たない。う◯こですか。いやいや、炎です。そこは執着していくよ。絶対この建築やるよ。とフィリップ・スタルクが言ったかどうかはわからないけど、これだけのものを建てるにはよっぽど執着しないと通らない。ひとつのアイデアに執着するのはよくないだろうけど、少なくとも自分の思いに執着しないと、マジョリティの波にのまれて簡単に無難な建物へ流れたと思う。

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一流の好奇心って聞かないけど、一流の執着心ってやつはあるんじゃないかな。そんなことをここ一週間考えた。